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仕事以外の話題

また人口の一割と言われるインド人(印僑と呼ばれることがあるが、印人と呼びたい)は、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥー語などを家庭で話している。彼らは華人と同じくマレーシア国民であるという自覚を強く持ち、先祖のルーツであるインドやパキスタンなどへの忠誠心はない。華人も印人も外に出ると英語、マレー語、ほかの華系や印系の言葉、例えば、母語が広東語なら北京官話、タミール語ならヒンディ語などを自由に操る。こうした民族的背景が多様なマレーシア人の母国語は、マレー語か英語ということになるが、母語はそれぞれに違う。

こうした状況に日本人の多くはあまり関心がなく、マレーシア人ならマレー語、インド人ならヒンディ語、中国人なら北京官話と紋切り型に母語を定義してしまいがちだ。日本のように日本語だけで用が足せる国と違い、世界には複数言語を使えないと生活が難しい国や地域が多い。英語(正確には米語)一辺倒の米国でさえ、最近のヒスパニック人口の増大で、第二の言語勢力となったスペイン語の習得が不可欠になりつつある。特にメキシコやカリブ海と境を接しているカリフォルニア、テキサス、フロリダなどがそうである。ロサンジェルス、サンアントニオ、マイアミといったヒスパニック人口の多い大都市では、スペイン語が全く分からないと日常生活にも不自由するといった事象が起きている。

一方、主な関心事というのは、仕事以外で話題となる事柄のことと考えてよい。家族、友人、スポーツ、娯楽、趣味、ボランティアなど多岐に渡るが、日本人の多く(特に会社人間と呼ばれる中高年)は、仕事以外の話題が目立って少ない。団塊の世代以降の中高年の意識は、それ以前と比べて異なっている、彼らは趣味人だ、隠れた非会社人間だとも言われるが、表向きは仕事一辺倒の人がまだまだ多いようだ。彼らが、外資系企業で多くの外国人と接して困るのは、仕事以外の話題である。米国人は比較的単純なので、スポーツと家族のことを話題にするだけで事足りるが、ヨーロッパ人となるとそうはいかない。

トップや幹部だけでなく、末端の社員も意外と教養人であることに驚かされる。彼らは心の奥では、日本人は底が浅いと軽蔑しているかもしれないが、偽善者というか外交官というべきか、そうした態度をあからさまに表わすことは少ない。中には日本駐在の間に日本通になろうと積極的に日本の文物について知識を吸収しようとする人間もいるので(若者に多言、彼らと接していると話題に事欠かない。問題は、教えるべき立場にある日本人が深い内容の質問となると答えられず恥をかいてしまうことだ。

例えば、テレビのクイズ番組などでも盛んに出題される四字熟語について、その意味だけでなく、発生した背景や歴史まで問われると立ち往生することも多い。子供から熟語について聞かれて困った経験を持つ親御さんなら、こうしたことを、実感を持って受け止めてもらえるはずだ。アジア人の場合は、親しくなると彼らが自国や日本だけなく、アジア全般そして広く世界に関心があることが分かってくる。国境が入り組み、他民族を自国に抱え、欧米及び日本、そして最近では再び中国の影響を受け続けてきたアジアの人々は、表面は穏やかに見えても、心は陰暦が深い。

各国に住む華人や印人は、国籍もあり、数世代、百年以上在住していても、言われなき「外国人」というレッテルを国内で受け、海外では自国の政府の頼りなさに失望している。景気が悪いと嘆いていても国を捨てて移住する気が全くない日本人には理解できない憤りや怒りを秘めていることがある。生活様式(ライフスタイル)と、物事に対する考え方(ウェイーオブーシンキング)生活様式、あるいはライフスタイルとは、簡単に言えば仕事への取り組み方とプライベートな時間の過ごし方のことである。

ソフトウェアを組みかえる

それとともに、より実際的な「共通の安全保障」のステップとして、「東アジア海上保安協力機構協定」と、実施のための「東アジア地域協力機構」の設立が求められよう。ここでも海洋依存国である各国は、すでに海上保安庁(日本)、海洋警察(韓国)、国家海洋局(中国)、税関警察(シンガポールほか)などの名称で非軍事組織の海洋治安機関を保有している。したがって、それを共同組織にまとめあげることで済む。合意と信頼さえあれば、日本、韓国にASEANを加えた組織なら、すぐにでも創設できるはずだ。「東アジア地域協力機構」は、各国の機関から拠出された軽武装の巡視船・監視船による海賊には勝つが海軍には劣るていどの能力を常備する。多国籍乗員による広海域の継続的な哨戒が実施される。

そうなると、アジアの海洋環境、治安、汚染、海難救助システムは、目にみえて改善されるだろう。機構運営に必要な「訓練センター」「管理・統制センター」が設置され、ここも多国籍要員で運用する。日本から海上自衛隊のP‐3C哨戒機(ソ連海軍なき今、もはや不要だ)が新機構に移管されれば、遠洋海難・海賊捜査・環境調査などに威力を発揮するだろう。同様に、日本が四基保有する「情報衛星」も北朝鮮の軍事施設を見張るためではなく「東アジア地域協力機構」に提供・開放されるなら、この地域への貢献度ははかりしれない。

これらはあらたな投資を必要としない。ソフトウェアを組みかえるだけで実現する。そして領空・領海開放という「共通の安全保障」の実質的な基礎をつくるのである。やがてそれは、国連海洋法条約にもとづく司法共助機関の設立をはじめ、さまざまな協力機構と共同体の、よりしっかりした枠組みへと発展していくことだろう。現在を「あらたな戦前」としないために以上は、束アジア版共通の安全保障へのささやかな踏み出しである。EUのような大構想ではない。しかし、それが達成されたときに期待できることは大きい。第一に、憲法前文に記された「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」する条件がととのえられる。それは九条を「世界に向けて開く」、アジアと国際社会に向けた実践のメッセージである。また、九条に「具体的な価値を与える」政策提起でもある。

第二に、日米安保条約を「日米友好同盟」に切りかえる現実的基盤がうまれる。これまで述べた措置は「安保条約破棄」を要しない。条文と交換公文(核持込み、兵力配置変更に関する事前協議制度)を字義どおりに適用すれば、条約が存続したままで達成できる。アメリカ側が不快感を示すだろうことは予測できる。だが長い目でみれば、双方にとって不利益はない。それにより在日米軍基地の削減から撤廃への道すじが現実的に描けるようになる。第三に、自衛隊縮減、とくに海・空自衛隊の大幅な削減が可能になる。陸上自衛隊も国境警備隊ていどまで縮小される。日本が一方的軍縮を実行することで、東アジア軍拡の乙プラグを抜きへ安全保障環境を不信と敵意から尊敬と協力、すなわち公正と共有、東アジア軍縮、「共通の安全保障」へと移行させていくシナリオがうまれる。

植民地帝国主義

このわずか一世紀後には、東方のほうもイスラム教によって生き返ってしまつたのですね。宗教によって衰退一方だった国家が生き返る、という見方をとる人ならば、それがキリスト教であろうとイスラムであろうと、歴史の推移を見つめる視点も同じになる。そしてここに至って、キリスト教対イスラム教の対立の構図が誕生する。実際、教祖マホメットの死の直後からはじまったイスラム勢力の伸張は、それが百年という短期間に成されただけに驚異的だった。たちまち、東はメソポタミアを経てインドに達し、南と西は、出生の地のアラビア半島はもちろんのこと、北アフリカ全域をイスラム一色に染めあげたに留まらず、北はジブラルタル海峡を渡ってスペインに、さらにフランスにまで侵入する勢い。

それをキリスト勢が迎え撃ったポワティエの会戦は七三二年。これには敗れたが、キリスト教徒たちの「ローマ帝国」は、首都コンスタンティノープルとその周辺のみという、帝国と呼ぶには恥づかしい規模にまで押しこまれていった。これも、ダマスカスから首都をバグダッドに移したことによって、より一層のマネーと人間のパワーを活用できる地盤を確立した、イスラムの勢力拡大の結果であったのだ。

七六二年の建設というバグダッドは、神が与えた都という意味をもつイスラムの都市である。商人の宗教でもあったイスラム教では、メッカやメディナを本拠にしていては通商に不都合だし、ダマスカスは地中海に近すぎた。通商にも好都合で東方の要になりうる地となれば、大河ティグリスとユーフラテスにはさまれ、農業も盛んで東と西の通商路にもあたるメソポタミア地方が最適だ。バグダッドは、キリスト教の帝国の首都にするために意図的に建設されたコンスタンティノープルに似て、イスラム教の帝国の首都として建設されたのである。

ローマを過去のものにする想いでコンスタンティノープルを建設したローマ帝国のキリスト教徒と同じに、新興のイスラム教徒も、ペルシア帝国やパルティア王国の首都だったクテシフォンではなく、そこからわずか四十キロにしろ離れ九地にバグダッドを建設することで、新興の宗教の気概を明示したかったのかもしれない。それから三百年が経つ頃になると、西方も攻勢に打って出る。十字軍がそれである。ただしこれは二百年の間断続的にしろつづいたのだが結局は失敗し、一四五三年には「ローマ帝国」の首都コンスタンティノープルまでイスラムの手中に帰し、イスタンブールと名を換えられてしまった。

そのうえさらに、当時のイスラム勢を代表していたオスマンートルコはヨーロッパへの進攻まで実行したのだが、西欧の盾になる想いで攻防戦を耐え抜いたウィーンのおかげで、ヨーロッパは助かったのである。地中海もイスラムの海になる勢いだったが、こちらのほうはヴェネツィア海軍が主力になった神聖同盟(と名のるからにはキリスト教海軍)がレパントの海戦で完勝し、海でもイスラムは待ったをかけられたのだった。

その後西欧は植民地帝国主義で攻勢に転ずるが、これはもう近代と現代の歴史になる。だが私には、キリスト教とイスラム教という一神教同士の抗争の根の深さは、ローマ帝国、つまり古代はいつ終りを告げたのかをめぐる諸説にさえも見え隠れしているように思えるのである。忘れてはならないのは、ローマ帝国の事実上の終焉はキリスト教が支配するようになった四世紀と考える人は、政治と宗教は別物と考える政教分離主義者に多い。一方、イスラムが攻勢に出てきた七世紀だとするのは、これとは反対の考えをもつ人々である。

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